オムレツの自尊心

 大学時代ファミリーレストランの厨房でアルバイトをしていたことがある。甲州街道沿いにあったそのファミレスは、名古屋の食品メーカーが事業展開をしていて今ではもう廃業しているのだが、店舗数もそれほど多くなく種類豊富なアメリカンパイがウリのチェーン店だった。だからそのチェーンはセントラルキッチンも脆弱でストーブもの(電子レンジだけで加工されるメニュー)も流通も今ほど発達していなかったので、ファミレスのキッチンと言えども従業者には結構な調理技術が必要とされた。
 そのレストランは男性アルバイトは厨房(もしくは駐車場)業務と決められていたから、新人はまず皿洗いを担当(いわゆるバス・ボーイ)となる。ウエイトレスが下げた食器類を溜めておくバスパンをフロアまで取りに行き、ホシザキの業務用食器洗浄機(バスと呼んでいた)で効率的にラックに並べて洗い、フォーク・ナイフ・スプーンといったシルバー類を熱いうちにトーションで磨き、お皿やグラスを定位置にセッティングし、その間に仕込みで使われたフライパンや鍋をせっせとシンクで磨く等、これらの作業を効率的に無駄なくこなせるように教育される。
 2,3か月経ちバス・ボーイ業務に慣れたら、次はプレップ(プレパレーション=仕込み)担当となる。アメリカンスタイルを標榜していたファミレスだったで、店内用語がいちいち英語なのだ。ちなみに名札もファーストネームで呼称も下の名前で呼び合っていた(恥ずかし^^;)。プレップ業務はサラダやつけあわせ(ガロニと言っていた)用に野菜を切っておいたり、パスタを下茹でして小分け(ポーション)したり、デミソースやトマトソース、チリソース等を仕込んだりする。やっとクリエイティブな作業が担当できるわけだ。
 ひと通りプレップを覚えるとようやくお客に出すメニューを作れるようになる。ウエイトレスがオーダーシートに記入するメニューの略称やレシピをひとつひとつ覚えてゆく。メニューによって、グリドル盤で焼いたり、フライヤーで揚げたり、バンズをトーストしたり、作業工程が別れてそれぞれ所要時間が違うから、複数のメニューのレシピの段取りを分解して同時に仕上がるよう計算して調理できるようになるまで結構な経験を要する。キッチン・ボーイに於ける最高峰は、デシャップ(司令塔)と呼ばれ、キッチン内の要員のシフト、客足を予測しての仕込みの量、混雑時のオーダーの分担と作業指示など、まさにキッチンの司令官だった。


 今から考えると奇妙なことなのだが、これらのキッチン要員は基本的に全員アルバイトだった。司令官も皿洗いも時給数百円の十代後半から二十代前半のバイトで編成されていたのだ。だからアルバイト間でもヒエラルキーと責任の所在を明確にするために結構な体育会系の集団でもあった。
 このファミレスはウエイトレスの短いスカートの可愛い制服が有名なチェーン店だったので、女の子目的のチャラい男性アルバイトもたくさん入ってきたのだが、イメージからは想像難い上記の体育会系業務に耐え切れる者は少なかった。だから逆に体育会系の試練をサバイブした者達の連帯感は強かった。チーム感。
 昨今、冷蔵庫の中に入ったり商品の上に寝そべった写真をいたずらに投稿する飲食店アルバイトの愚劣さが話題となっているが、思えばあの頃の僕等もなかなかフザケていた。衛生面で問題となることはしなかったが(体育会系なのだ)、手口がもっと巧妙で姑息だったかもしれない。何しろキッチン内の商品の発注や在庫管理もアルバイトに任せられているので、業者が持ってきたサンプルはアルバイト達で山分けしたし(メニューの決定権は持っていなかった)、みんなでキャンプとなれば食材の廃棄率でごまかせる量を勘案して回数を分けて肉や野菜を多めに発注したりした。そんな余剰食材は駐車場に通じる業務用エレベーターがあったのでクルマのトランクにこっそり(いや大胆に)直行した。そして在庫の合わない時はキッチン連中で結託してウソの棚卸しで調整した。いや、安い賃金のアルバイトに棚卸しさえ全て任せた店側にも問題があったと思うけど。ごめんなさいm(_ _)m

 キッチン内の仲のいいチームは業務終了後に遊びに行くことを念頭にシフトを組んだ。真夜中の20号・246・第三京浜をクルマで飛ばして横浜山手から夜景を楽しんだり、当時まだあまりなかった24時間営業の元町のハンバーガーショップで夜明かしした。当時日本はまだ飲酒運転がSeldom-illegalじゃなかったっけと記憶違いするくらい酒を飲んでハンドルを握った。リーダー格の世慣れたセンパイが繰る濃紺のジェミニ・イルムシャーの運転が格好よくてそれだけで尊敬した。そんな彼が教えてくれた。
ミッキー・ロークケビン・ベーコンの『ダイナー』って映画、知ってるか? オレたちみたいで、ぐっと来るよ」


 トーストしたクラブサンドを鮮やかに切るのも難しかったが、そのレストランでいちばん調理技術を必要するメニューは何と言ってもオムレツだった。一朝一夕では800円に値付けされるオムレツは作れない。最初は何度もオムレツ専用のフライパンに濡らしたフキンを置き卵を折り返す練習をする。躰全体を使って手首をしなやかにタイミングよくひっくり返さないと商品にできるようなオムレツにはならない。オムレツをちゃんと作れることが最後の関門だった。一人前のキッチン・ボーイである証明としての800円のオムレツ。
 いよいよ実際に卵3個を使ってのオムレツ練習に際して、自分の従食(従業員食事、メインメニューが無料で食べられた)は勿論、教育担当者の分までしばらく失敗した卵焼きの固まりとなる。火から下ろすタイミングが難しい。先輩のOKが出るまで、当分卵は食べたくなくなるほどの連綿と従食オムレツの日々は続くのだ。
 オムレツの練習は悪いことばかりではない。オム練期のキッチン・ボーイはウエイトレスの女の子達の従食に自分のオムレツを食べてもらうよう口説くという儀式があった。大抵の女の子はオムレツは好きで、ガッツリ肉汁滴るハンバーグを食べるよりイメージの良いオムレツは好むが、なにぶん見てくれの悪いオムレツを食べてもらうエクスキューズは必要で、オム練男はウエイトレスとのより良いコミュニケーションが不可欠となり、オムレツ嘆願を言い訳に気になる女の子と仲良くなるきっかけとする者も少なくなかったのだ。オムレツがとりもつカップルの伝説。


 ご多分に漏れず僕も幾人かの素敵な女の子達とデートをする機会も得たのだが残念ながら長続きはしなかった。しかし中にはそのレストランで出逢い、つき合い、愛を深めて、何年か後に結婚をして家庭を持つ幸運なカップルも何組かいた。




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 男は台所の上の棚に仕舞った自分専用のフライパンを取り出す。しっかりと油が張られ手入れの行き届いた小ぶりのフライパンはオムレツ専用だ。普段すっかり料理はしなくなっていたが、仕事で行き詰まり気分転換をしたい休日の朝に、彼はオムレツを作ることがある。それは卵3個で800円をとっていたというあの頃の自負を再認するための作業なのだ。
 冷蔵庫を開け、よし、卵は6個あると確認する。冷凍食品と出来合いの惣菜に溢れた冷蔵庫の中から使えそうなオムレツの具を選び出した。熟し過ぎたトマトとベーコンの切れ端、そして1枚だけ忘れ去られたスライスチーズ。
 トマトとベーコンをさいの目に切りチーズを半分にする。卵3個をボウルに割り木製フォークでさっくりと混ぜ、フライパンを強火にかける。バターをフライパンに溶かし、トマトとベーコンをソテーし、さっと塩コショウする。具が半分炒まったところで卵を一気に入れ、木製フォークで激しくかき回す、かき回す。同時に前後にフライパンを振る。スクランブルエッグから一歩進んだところで火から外し、スライスチーズを中心に置き、卵の縁をまとめにかかる。あとは予熱での勝負だ。フライパン上辺の卵に木製フォークをしのび込ませて手首をしなやかに卵を手前に返してオムレツとして成形する。フライパンを逆手に持ち直し平皿にオムレツを滑らす。よし、完成。にぶってない。
 洗濯物を干し終えベランダから戻った妻が「あ、久し振りにパパのオムレツかぁ。わたしの分も…」
「勿論、作りますよ。トマトとベーコンとチーズだけどいいよね?」
 もうひとつのオムレツをゆったり作る間、妻はトーストを焼きコーヒーを淹れオレンジジュースをグラスに注いた。
「おまちどうさま」と男はオムレツ皿を食卓に並べてダイニングにつく。美しくて美味しいオムレツを作れる自尊心。
「懐かしのオムレツだぁ」と妻が大げさにおどけた。
 窓からは朝の陽射しが煌めき、居間のドッグサークルではトイプードルのロッキーがカリカリをドックフードを猛然と食む。
 男はコーヒーを飲みながらふと、スピーカーに挿したiPodから<80年代フォルダ>の曲をシャッフルで回してみた。
 ポコポコと鳴るシンセドラムに、起き抜けで食卓に来たエグザイル好きの中学生の娘が「ダサっ」と鼻で嗤った。
 それでもATSUSHIより渋い声でリック・アストレーは歌っている。
「…ずっと一緒にいよう。絶対離れないよ…」