「感動をありがとう、与えます」論

2014年3月7日深夜、TBSラジオの番組『東京ポッド許可局』にて、僕が投稿した文章がサンキュータツオさんによって読まれた。
番組が語らった「自分を特別な存在としてとらまえて発言するオンリーワンの輩を評する『オンリーワン論』」に対する感想意見、深夜、酔いに任せて書いて、翌日一応推敲して送ったまま、忘れていた投稿だけに嬉しい。っていうか、投稿ってもの、プレゼント懸賞応募とか以外、実は初めてだったかもしれない。
ってな訳で、投稿をそのまま、自分のブログに転載して、『感動をありがとう、与えます』論と題させていただきやす。

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局員名:トータス・ゼロ

はじめてメールします。(略)
許可局も初期からずっと聴かせてもらってます。(略)

先日のオンリーワン論、我が意を得たりでした。
『世界にひとつだけの花』に始まる、自己唯一性を大仰に謳う風潮に私も、むずがゆく、違うぞ日本人!と常々感じておりました。

オンリーワン論に乗っかると、これから五輪シーズンに増殖するであろう、「感動をありがとう」表明、あれにも、オンリーワン論に近い、むずがゆさを感じてしまいます。
競技者や表現者の、卓越した記録やコンテンツ、そのバックボーンの物語について、何らかの成果が出た時、観覧者は、尊敬や気づき、喜びやおかしみ、そして畏敬の念を抱くのは素晴らしいことで、人間として生きていく上での大きな糧ではあると、勿論思います。
そして、例えば、優れた競技者の結果に対して、リスペクトを表明し讃え、副次的にせよその者に対価を払うことは至極当然の事と思います。
でも、その一連の心の動きを、脊髄反射的に「感動をありがとう」という、ひと括りの安易な言葉に置き換えてしまうのは、成果を得た人に対しても、その実、失礼なのではないでしょうか。

そして逆も言えます。
競技者・表現者の中に「感動を与えたい」って言う人たちがいます。
与えるって言葉はまずもって完璧な上から目線で、その事に無自覚な発言者は昨今多いのではと思うし、あなたたちは本当に「感動を与える」ために、練習をし、推敲をし、苦しみ、悩んでいるのですか? 
違うでしょ? 自己実現のためだったり、プライドだったり、カネのためだったり、家族のためだったり、やらずにはいれなくて、やらないと自分が駄目になってしまいそうで、ギリギリの努力をしているんじゃないですか? と訊ねたくなります。

それなのに、「感動をありがとう」って言われるから、反射的に、無思慮に「感動を与えたい」って口走ってしまうのはいかがなものでしょう。そんなふうに、行って来いする「感動」って、実に薄っぺらい、インスタントで安直な安い「カンドー」でしかないのでは? と考えています。

「感動をありがとう、与えます」論、みなさまは、いかがお考えですか?