1Q84読中メモ40

第16章(天吾)まるで幽霊船のように
 天吾は自分のアパートでふかえりと何も予定のない日の朝を迎える。彼女との会話は相変わらず暗示的・限定的で要領を得ない。編集者・小松と連絡を取ろうと出版社に電話するが、小松も「失踪」している。村上的、やれやれ、な状況だ。
 青豆の消息をあたるために天吾は電話局に赴き、珍しい名字「青豆」を電話帳で捜す。でも見つからない。ふたりが在籍した小学校に電話し、同窓会の幹事のふりをして当時の電話番号を聞くがその番号はもう使われていない。
 村上春樹のデビュー作の『風の歌を聴け』の中にも、レコードを借りたままになっている高校時代の同級生に連絡をとるために、ケチャップ会社の調査員のふりをして学校に電話番号を訊くシーンが確かあったが、ま、個人情報保護法的セキュリティの概念などみじんもなかったよなあ、最近まで。新聞記事もそうだけど、電話番号や住所を調べるには印刷物の索引をひとつひとつ当たらなくてならなかった時代って、そんなに前じゃないし。グーグルがあらゆる情報をデータベース化し、僕たちが欲望のままに情報を検索できる「動物化」には、1984年はまだ至っていなかった。マッキントッシュはふたりのスティーブによって産み出されていたけど、まだ我々の実生活的にはあまり関係のない話だった。
 収穫のないまま天吾が部屋に戻ると、ふかえりは床にそのまま座り古いジャズのLPを聴いていた。『1973年のピンボール』の双子や、ビル・エヴァンスを繰り返し聴く『ノルウェイの森』の直子など、LPレコードを丁寧に扱い針を落とす、村上小説の女の子たちは個人的にとてもセクシーだと思う。ふかえりのこのシーンを書きたくて、ハルキさん、今回の小説の舞台をまだCDがあまり普及していない1984年にしたんじゃないかとちょっと勘ぐってみる。
<〜人の表皮細胞は毎日四千万個ずつ失われていくのだという事実を天吾はふと思い出した。それらは失われ、はがれ、目に見えない細かい塵となって空中に消えていく。我々はあるいはこの世界によっての表紙細胞のようなものなのかもしれない。だとすれば、誰かがある日ふっとどこかに消えてしまったところで不思議はない。〜>