1Q84読中メモ20
第20章(天吾)気の毒なギリヤーク人
眠れない夜、天吾のアパートでふかえりと彼は物語の世界に身を沈める。
天吾の求めに応じて、ふかえりは『平家物語』の壇ノ浦での安徳天皇の入水自害の段を暗誦する。村上の著作で実在の物語が2ページにわたって引用されるのは初めてではないか。「世の趨勢によって追い詰められる命」が村上春樹のこの小説の最後のキーとなっていくのだろうか。『ノルウェイの森』で直子のいる施設に向かう前、暗示的にワタナベ君はトーマス・マンの『魔の山』を読みふけっていた。すぐれた小説に無意味な引用はあり得ない。
天吾はふかえりのために本棚から吟味して『サハリン島』を要約しながら読んできかせる。19世紀の人気作家・チェーホフの極東・サハリン滞在記らしい。チェーホフが何故サハリンに行ったのかとふかえりに訊ねられた天吾は、その動機のひとつは地図でサハリン島の形を見ていてどうしても行きたくなったのではないかと推察する。
村上自身紀行本(?)『地球のはぐれ方』の中で、実際にサハリンを訪ない、生のサハリン感を綴っているのだが、そこでもチェーホフのこの実務的な滞在記に触れ、『1Q84』の天吾と同じような解釈をしている。
実際、僕は身をもって(?)そんなハルキさんのウソを経験したことがある。
あるエッセイの中で、アリゾナにいた村上がアメリカの地図を見ていて、サハリンに誘われたチェーホフよろしく、どうしてもサウスカロライナ州チャールストンに突発的に訪れる話がある。魅力的な古き良きアメリカの匂いを携えた町並みを彼はたいへん気に入ったようで、食欲を刺激する南部魚料理を出すレストラン、そして幽霊の出る旅館などが、彼にしては珍しく実名で紹介されていた。
僕は何年か前、チャールストンに行く機会があり、わざわざハルキさんご推奨のそれらの店や宿をメモしていった。確かにチャールストンはなかなか歴史のある趣のある街だった。そしてご推薦のレストランはちゃんとあったが、おいしそうに描写されていた料理はメニューになかった。また、彼の泊まったとするINNは存在しなかった。エッセイが書かれてから十年以上経っていたので閉館したのかと思い、街の観光協会に訊いてみたけど見つからなかった(窓口の女性は、そんな名前の旅館はこの街に存在したことはありませんと断言していた)。
村上は引用と事実の中に小説家的ズラしをしのばせ、実に上手に嘘をつく。
デビュー作『風の歌を聴け』からして、架空の小説家、デレク・ハートフィールドという作家の多くの文章を<引用>して、初めての小説執筆のモチベーションとして物語の中で語った(そして当時の評論家の何人かはまんまとハルキさんにだまされた)。
ふかえりはしばらくそれについて考えていた。
「僕らの記憶は、個人的な記憶と、集合的な記憶を合わせて作り上げられている」と天吾は言った。「その二つは密接に絡み合っている。そして歴史とは集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる」〜>
ジョージ・オーウェルの『1984年』のあらすじをふかえりに説明した後、天吾は説明する。記憶のすり替え、再定義、そして記憶の集合体としての歴史、記憶の改ざんから生じる歴史の再編集…。パラレルワールド・1Q84世界も神の手なる誰かの記憶のリミックスなのだろうか。いずれにしても、このチャプターは小説『1Q84』にとってポイントとなる章のような気がする。