映画『空気人形』感想

ZERO-tortoise2009-10-04

 昨日バルト9是枝裕和監督の「空気人形」を観てきた。
 不思議な作品だ。キーワードが散りばめられていて何度も咀嚼できる映画だと思う。
「空気人形」は空気で膨らまされた独身男性用の愛玩ラブドールの事だ。その空気人形がある時<こころ>を持ってしまうことから物語は始まる。空気人形を演じるペ・ドゥナは、持ち主の目を盗み外に出て、世界の仕組みをひとつひとつ拙く感じ始める。彼女のアパートは河の向こうに高層マンションが建ち並ぶが、開発からぽっかり抜け落ちたような、かといって歴史的建築物がある訳でもない都心の空虚な場所。劇中では「京橋区銀町」とされていたが、東京都中央区明石町や湊のあたりがモデルかもしれない(僕はこのあたりをよく昼休み散歩する)。よくありがちな昔からの近所づきあいとかふれ合いとかはここでは描かれない。町が空洞化してしまって、移る術もない老人と一時的住民はそれぞれ孤立している。人形のように心に空洞を抱えて生きている人々。空(くう)。
 この映画の主演に是枝監督が韓国人俳優のドゥナを据えたのは何より素晴らしいキャスティングだ。僕らがよく知っている女優やタレントがもしこの役を演じていたらこの作品の魅力は半減しただろう、どんな名演技でも。ドゥナは的確に<人形>を演じる。そして、外国人特有の台詞回しが妙に生々しくセクシーだ。ドゥナがどれほど上手に台詞を言っても、日本人の日本語の発音とは息の出し入れの強弱が異なることが感じ取れて、それがとても<リアル>だ。そして彼女が愛した男から息を吹く込まれるラブシーンはどんな深いベーゼよりも官能的だ。ドゥナの長い手足が彼の吐息にぴくんと交歓する。息。
 こころを宿して、生命を思うドゥナに是枝監督は、吉野弘の「生命は」を引用させる。この映画の名シーンのひとつだが、その思いはタンポポの綿毛となって空虚なヒトタチの間を翔び巡る。風。

 映画のラストの着地点が気になって原作の業田良家のマンガを買ってみた。20ページの短編だ。ここに着想を得ているとしたらやはり映画の締めくくり方は順当かな。原作の書かれた1990年代後半のラブロール技術(?)はたぶんエアポンプ式が主流だったのだろう。<空気>というのがこの物語の大きなフックだからここを変更する訳にはいかない是枝監督は、アリバイとして「時代遅れで安物」という設定を苦心したのかもしれない。

「空気人形」を観て僕がまず思い出した映画は「マネキン」だった。設定は似ているがアメリカ80年代的楽観主義で描かれたこの作品は「こころ」についてなど内証はしない。もちろん「ラースと、その彼女」も<ラブドール>ものとして挙げられるかもしれない。でも、この映画の人形はべつに魂持たないか。もしかして結構近い映画は押井守「イノセンス」かも? まあ、大佐はバトーほど<ゴースト>について悩んじゃいなかったが。
 2005年頃、ネットで話題になったブログ「正気ですかーッ」が一番美しいラブドールの物語だろう。この筆者は確実に「菜々ちゃん」に純粋に恋をしている。「空気人形」での蜜月期の板尾側から映画を描いたらこうなったかもしれない。

 ところで、後半のドゥナが自分探しの旅に出るクダリは果たして必要だっただろうか。まあ、この映画でオダギリジョーの役はいるの?ということなのですが。
 蛇足:富司純子の声を聴くと「サマーウォーズ」のおばちゃんの顔が浮かんでしまうようになっているのですけど。
 堤幸彦と較べること自体失礼かもしれないが、同じ業田の名作の映画化「自虐の詩」より500倍くらい素晴らしい映画でした。
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空っぽな人形が「心」を持ってしまったーー。
嬉しくて切ない愛の物語
「空気人形」
2009年9月26日より公開

監督・脚本・編集・プロデューサー: 是枝裕和
原作: 業田良家
美術監督種田陽平
出演:ペ・ドゥナARATA板尾創路寺島進オダギリジョー富司純子

「空気人形」公式サイト

追記:09/10/15
昼休み散歩で中央区湊あたりへふらりと行ってみると、本当に映画のあの空き地(公園だったが)があった。