『Dr.パルナサスの鏡』デジタルという鏡の中
コンテンツ制作者にとって、技術としての「デジタル」が、現実として安価に遠慮なく実用できるようになった昨今、映像作家にとっての「デジタル」の利用は、あるフェーズにおいて二極化していくような気がしている。
ひとつの方向は、「リアル」をデジタルによって記録し、豊かな企画力と構成力で表現し、デジタルのネットワークによって、リアルなつながりを観るものに与えてくるライン。例えば、2009年度メディア芸術祭エンターテインメント部門大賞「日々の音色」や、関和亮監督のサカナクション「アルクアラウンド」が思い浮かぶ(両方ともビデオクリップだがw)。ちょっと毛色が違うが松江哲明監督の『ライブテープ』このラインで語れるかもしれない。(ちょっと意味不明な文章になったかな)
もうひとつのデジタルの方向は、いわゆるCGIとしてのデジタル技術としてみる。CGすげーと感じる映像、これは解りやすい。一昔前CGIはあくまで補完的な技術として利用された。撮影不可能な映像を実現したり、演出のひとつのアクセントに過ぎなかった。時は経り、ここ時代に至って「デジタル」は映像の補完技術ではなくなった。自分の中に確かなビジョンがあり、現出させたい世界観を持っている映像作家にとって、本当に幸福な時代が到来した(優秀な製作者がパートナーならばという条件付で)。『アバター』のキャメロンにとって、『アリス』のバートンにとって、そしてテリー・ギリアムにとって。(やっと辿りついたw)
『Dr.パルナサスの鏡』は、ギリアムが「モンティパイソン」や「バロン」でこれまで十全に表現できなかったであう、自分の脳内イメージで満ち溢れている。チープな猥雑感と哀愁、愛すべきフリークスと歪んだ物語世界。僕は一連のギリアムの作品はほとんど観てきているつもりだが、「パルナサス」が一番好きだ。
ヒース・レジャーの急逝で、「ラマンチャ」の悲劇再びと思われたが、ギリアムは「デジタル」と、友情というリアルな「つながり」によって今回は救われる。作中、ヒースは鏡の中で、ジョニー・デップに、ジュード・ロウに、コリン・ファレルに変幻自在に姿を換える。僕たちはこれからも彼らの姿を通じて、スクリーンという鏡の中でヒースを感じることができるのかもしれないなとふと思った。
この映画を試写室で観た時、映画評論でも定評のあるミュージシャンの方とたまたま隣り合わせた。上映中、お互い組んだ足がちょっとぶつかり、その方の小声の生<サーセン>が聞けてとても嬉しかったw
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2010年1月23日(土)より全国ロードショー
原題:The Imaginarium of Doctor Parnassus
監督:テリー・ギリアム
製作:エイミー・ギリアム、サミュエル・ハディダ、ウィリアム・ビンス
脚本:テリー・ギリアム、チャールズ・マッケオン
撮影:ニコラ・ペコリーニ
美術:アナスタシア・マサロ
音楽:マイケル・ダナ、ジェフ・ダナ
出演:ヒース・レジャー、クリストファー・プラマー、ジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレル、リリー・コール、アンドリュー・ガーフィールド、バーン・トロイヤー、トム・ウェイツ