巨大なスクリーンに映る菊地凛子が、僕の感想を変えた…映画『ノルウェイの森』

昨日、映画『ノルウェイの森』を観た。11月に観た試写以来2回目。前に書いた感想から映画自体の印象がかなりかわった。要因は大きなスクリーンに映った、直子を演じる菊地凛子の不気味さ。で、前に書いた感想に加筆修正した文章をまとめてみたのでアップしてみる。
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 僕は中学の時、村上春樹を知り(『1973年のピンボール』まで文庫化されてた)、『羊をめぐる冒険』以降、ハルキさんの本は発売されたらとりあえず買うという、ごく初期からのファンのうちのひとりだ。

 1987年に発売された小説『ノルウェイの森』は、僕はまだぎりぎりティーンネイジャーだったのだが、鮮烈な恋愛小説として(簡単に言うとエロいと思ったw)読んだ。

 今回、映画を観るにあたり、久しぶりに再読した。40代になって読む『ノルウェイの森』は、初読とは、まったく違う地平に立つ物語と認識した。村上春樹自身も言及しているのだが、この小説は【カジュアリティーズ】に関する物語だ。<Casualties>とは、戦いの中で傷つき死んでいったもの達のこと(デ・パルマベトナム戦争を描いた映画のタイトルでもあったw)。ハルキさんは<戦闘員の減損>と訳している。

 全集の付録の小冊子の中で、村上春樹は『ノルウェイの森』に関して次のように綴っている。

それは僕のまわりで死んでいった、あるいは失われていったすくなからずカジュアリティーズについての話である。僕がここで本当に描きたかったのは恋愛の姿ではなく、むしろそのカジュアリティーズの姿であり、そのカジュアリティーズのあとに残って存続していかなくてはならない人々の、あるいは物事の姿である。成長というのはまさにそういうことなのだ。それは人々が孤独に戦い、傷つき、失われ、失い、そしてにもかかわらず生き延びていくことなのだ。

 小説『ノルウェイの森』は、100%の恋愛小説では決してなく、死んでゆく者、失われていくこと、そして残された、『にもかかわらず』サバイブしていく者の物語なワケだ。映画評論家の町山さん風に言うと『でも、生きるんだよ』というか…確かに作中、主人公のワタナベくんは、『でもやるんだよ』的にやりまくってましたが(笑)。

 閑話休題

 いっぽう、映画化にあたり、トラン・アン・ユン監督は、『ノルウェイの森』をとらまえて、「自分の人生の定義を求めて、同時に愛に目覚めて、その感情に真摯に向き合う青春の渇望といえる姿に惹かれた」とコメントしていることからも分かる通り、映画『ノルウェイの森』は小説とはテーマを異にする作品、恋愛を主たる物語だということは、観る前に確認しなくてはならないことかもしれない。

 製作クレジットのトップにあるので、この作品も<世界の亀山ブランド>と思われがちだが、『ノルウェイの森』に関しては、フジテレビは完全にあと乗りだ。アスミック・エースの小川真司プロデューサーとトラン・アン・ユン監督が一丸となって、村上春樹口説き、企画を進めてたのち、10億円を越えたという製作費の<金融>として、フジテレビ映画事業局は参加している。

 さて、恋愛映画としての『ノルウェイの森』はどうだったか。原作ファンにとっては、言い足りない部分が多く残るが、ユン監督が自身の映画文法に乗せると、あの物語は、なるほどこういった作品に、良くも悪くも昇華されるのかというのが僕の第一印象だ。

 まず、ワタナベ役の松山ケンイチが素晴らしいと思った。監督第一主義の松ケンらしく、トラン・アン・ユン監督の画の中の人物として違和感なく溶け込み、独自の解釈も主張したという、村上文学独特の台詞まわしを、見事に映画の言葉として馴染ませていたのには感服した。

 ミドリ役の水原希子に関しては抜擢したユン監督に脱帽。ファッションモデルのコケティッシュな彼女のハーフの顔立ちは、おおよそ原作のミドリとは結びつかなかったので、キャストが発表された時、個人的に大丈夫かなと思っていたのだが、リー・ピンビンの撮影するトムソン・ヴァイパーという独特のキャメラを通すと、原作にはないミドリの姿が立ち上がっていた。<春の小熊のように素敵な>ミドリではない、優しくアルカイック・スマイルを浮かべる、少し儚げな水原演じるミドリ。緑色の服の似合うミドリ。水原の演技の拙さは確かに気になったが、トレーラーにも使用されているプールのシーンの瑞々しい彼女を観て、僕の想像を超えたミドリの立ち居振る舞いに魅了された。

 また、3シーンのみの登場でしたが、ハツミさんを演じた初音映莉子も良かった。永沢先輩やワタナベに注ぐ<眼差し>の赦しと怒り・主張、永沢との言葉の応酬と目線のやりとりにはゾクゾクきた。

 直子役の菊地凛子のついて。彼女の直子の演技プランは認めるけど、僕が20年間思い描いた直子との乖離はいかんともし難いものがあった。僕はこの映画を2回観たのだが、1回目の試写室の小さなスクリーンでは、菊地の演じる直子に違和感は感じたものの、まあ、仕方ないか程度だったのだが、映画館の大きなスクリーンに映しだされる菊地=直子は、そのルックスも演技も不気味で異形なものを感じた。<あれ>は決して直子ではない。怖い、怖すぎる。物語の構成から考えると、直子が抱えた狂気は、静かに蝕む内包的なものでなければならない筈なのに、菊地のオーバーアクトは、直子の運命的なセツナサを全面展開してしまう…。直子はどんなに追い詰められても、人前で絶叫すべきではない。
 親友・キズキがカジュアリティーになり、遺された直子をどんな歪んだカタチにせよ、受け止めなければならないというある種の責任が、ワタナベくんの直子への<愛のようなもの>だったと思うが、水原=ミドリの若々しい姿が原作より鮮明に描かれることによって、『ノルウェイの森』というコンテクストが、まずワタナベと直子の物語があって、それはす宿命的に死の方向に向かってしまう。ミドリという、抗しがたい、生命感に溢れた女性がワタナベを惑わす。…という誰もが抱く、ファーストインプレッションを正しく破壊してくれているのかもしれない(笑)。菊地凛子の発する負のパワーは、①いろいろあったワタナベが心機一転、ミドリという魅力的な女性と惹かれあう。②でも、高校時代の親友が遺した不気味な、いっちゃってる恋人をケアしなくてはならない…と物語本来の構造を分かりやくすく提示しているとも言えるかもしれない…

 あともうひとつの違和感、レイコさんについて。映画の中での人物造形が浅すぎて、あれじゃ、謎の世話焼き狂人おばさん(性交も好き)に成り下がっているかと思った。特に2つの点。
 レイコさんは声を出して「ノルウェーの森」を歌ってはいけない。ギターの旋律演奏で歌うべき。レイコさんはピアニストだったのだから、それくらいのギターテクは習得できた筈で、カタカナで「アーイ・ワンス・ハッダ・ガール…」って歌われても興ざめだった。多くの製作費を費やしてビートルズのオリジナル楽曲を主題歌に使用出来たのだから、なおさら、あそこで彼女に歌わす必要はなかったと思う。撮影時はオリジナルの許可がおりてなかったかもしれないが、そうだとしても後撮しても変えるべき重要なシーンだと。だいたい、あの阿美寮のシーン(レイコ、歌う→直子、嗚咽→ワタナベ、散歩)だけだと、そもそもこの物語が何故『ノルウェイの森』というビートルズの歌を冠したのか、さっぱり判らなくなっている。
 また、ワタナベの部屋にレイコがいきなり訪ねて、セックスを強要するシーン。レイコさんが自分のミソギのために、ワタナベくんにやってもらっている風になっていたが、原作ではギターで50曲直子の好きだった歌を歌う<淋しくない葬式>をして、最後の通過儀礼としてふたりは自然に交わるという流れになっていた。だから、ワタナベも直子のことに一段落を置くことができて、ミドリに電話をすることができるのだ。映画だと、いやいやレイコさんとセックスしたけど、まあ、スッキリしたからミドリに電話すっか、というあまり感動的でない展開に僕は納得しない。あと、ワタナベくん、自分のアパートの公衆電話からかけて、「ここはどこだろう?」という台詞は、ないと思うよ(笑)。

 事程左様に、原作のエピソードからの抽出が結果的にイビツになってしまい、トラン・アン・ユン監督の演出力は認めるけど、映画としての着地が非常に不可解なものになってしまっているというのが僕のトータルの感想だ。

<追伸> 
 愛すべきキャラ・突撃隊が学生服を着ていないのはちょっと残念だったが、エンドタイトルの彼の英語訳名が「Storm troope」なのには笑ってしまったw