小説『ノルウェイの森』から映画『ノルウェイの森』を眺めてみる


 先日、公開に先駆けて東宝本社の試写室で映画『ノルウェイの森』を観る機会を得た。
 僕は中学の時、村上春樹を知り(ピンボールまで文庫化されてた)、『羊をめぐる冒険』からこっち、ハルキさんの本は発売されたらとりあえず単行本で買うという、まあ、ごく初期からのファンのうちのひとりだ。

ノルウェイの森』は、その内容もさることながら、発刊当時の、それにまつわる個人的記憶や出来事で、僕の中でも特別な村上作品だ。赤と緑の初版本、文庫、全集、様々な言語に訳されたペーパーバック…ウチの書庫にはいろんな『ノルウェイの森』がある。今回映画を観るにあたって、赤・緑の単行本を引っ張り出して、久し振りに読み返して臨んだ。たぶん21世紀になってから、この小説は読んでなかったような気がする。


 多くの人が語っていることだが、ティーンネイジャーの頃、鮮烈な恋愛小説として初読した印象(簡単に言うとエロいと思ったw)からすると、40代になって読む『ノルウェイの森』はまったく違う地平に立つ物語だ。村上春樹も言及しているが、この小説は【カジュアリティーズ】に関する物語だ。<Casualties>とは、戦いの中で傷つき死んでいったもの達のこと、デ・パルマベトナム戦争を描いた映画のタイトルで僕は初めて知った英単語だ。ハルキさんは<戦闘員の減損>と訳している。

村上春樹全作品 1979〜1989(6):ノルウェイの森』付録の小冊子「自作を語る 100パーセント・リアリズムへの挑戦」の中で、村上は綴っている。

 それは僕のまわりで死んでいった、あるいは失われていったすくなからずカジュアリティーズについての話であ<中略>る。僕がここで本当に描きたかったのは恋愛の姿ではなく、むしろそのカジュアリティーズの姿であり、そのカジュアリティーズのあとに残って存続していかなくてはならない人々の、あるいは物事の姿である。成長というのはまさにそういうことなのだ。それは人々が孤独に戦い、傷つき、失われ、失い、そしてにもかかわらず生き延びていくことなのだ。

 10代の頃は物語の中だけの話と思っていたが、40歳を過ぎた僕のつましい人生にも、<カジュアリティーズ>が現出することとなる。生死が分かつものでなくとも、ほぼ永久に僕にとって失われてしまったり、決定的に損なわれてしまったりする人々・物事が、いつのまにか累々と積み重ねられていく。にもかかわらず、僕らはサヴァイヴしていく、あの人たち・あの事たちを忘れないために。

 10億円を超えた製作費を投入した映画『ノルウェイの森』を実現させた、アスミック・エース小川真司プロデューサーも、プレスリリースで村上春樹のこの言葉に触れ、映画企画を進める時に小説を再読して、深い感動とともにそれを感じたという。

 国内発行総累計部数1079万部を突破(2010年11月時点)、世界36言語にも翻訳されている原作小説を、ベトナム系フランス人映画監督=トラン・アン・ユンは、独自の映像感覚で、いびつな部分を孕みながらも、ひとつの恋愛映画としてまとめ上げている。小説『ノルウェイの森』に関して彼は「自分の人生の定義を求めて、同時に愛に目覚めて、その感情に真摯に向き合う青春の渇望といえる姿に惹かれた」とコメントしている。つまり、映画『ノルウェイの森』は小説とはテーマを異にする作品、恋愛を主たる物語だということは、観る前に認識しなくてはならないだろう。


 映画のキャストに関してざっと思うことは、内田樹先生のブログと、ほとんど同じ感想になってしまうが、まずワタナベ役の松山ケンイチが素晴らしい。監督第一主義の松山らしく、トラン・アン・ユン監督の画の中の人物として違和感なく溶け込み、独自の解釈も主張したという、村上文学独特の台詞まわしを、見事に映画の言葉として昇華させていた。ミドリ役の水原希子に関してはユン監督に脱帽だ。ファッションモデルとしての彼女のハーフの顔立ちは、おおよそ原作のミドリとは結びつかなかったので、キャストが発表された時、個人的に大丈夫かなと思っていたのだが、リー・ピンビンの撮影するトムソン・ヴァイパーという独特のキャメラを通すと、原作にはないミドリの姿が立ち上がる。<春の小熊のように素敵な>ミドリではない、優しく、少し儚げな水原演じるミドリ。緑色の服の似合うミドリ。原作にはない(トレーラーにも使用されている)、プールのシーンの瑞々しい彼女を観て、僕らの想像を超えたミドリの立ち居振る舞いに魅了された。
 直子役の菊池凛子のついては僕は多くを語らない。彼女の直子の演技プランは認めるけど、僕が20年間思い描いた直子との乖離はいかんともし難いものなので…。
 永沢先輩とレイコさん(それとハツミさん)に関しては、内田先生も言っているように演じた俳優に罪はないが、映画内の造形が浅過ぎて、上滑り感は否めないような気がする。永沢さんには「ナメクジ」のエピソードは必要だし、レイコさんは声を出して「ノルウェーの森」を歌ってはいけない…。
 突撃隊が学生服を着ていないのはちょっと残念だったが、エンドタイトルの彼の英語訳名が「Storm troope」なのには笑ってしまったw

 ジョニー・グリーンウッドの繊細な劇伴も心に残る。そして何よりも、レノンの歌声がスクリーンから流れてくると、僕らの心持ちは、あの頃の自分の中にひっそりと作った『ノルウェイの森』というサンクチュアリに無意識に引き戻されてしまう…。もう一度、劇場で大切な人と一緒に観るつもりだ。


PS
映画情報の下に、小説と映画のエピソードを、どうしても比較してしまって、個人的に(村上ファンとして)納得できなかった部分があったので羅列してみる。ある意味ネタバレなので、映画を観るまで知りたくない方は読まないで下さい。
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2010年12月11日(土)より公開

ノルウェイの森
公式サイト

監督・脚本: トラン・アン・ユン
プロデューサー: 小川真司亀山千広
原作: 村上春樹
出演:松山ケンイチ菊地凛子水原希子高良健吾玉山鉄二霧島れいか




<以下ネタバレあり>

・直子との長い散歩について
 東京で偶然再会したワタナベと直子は週末、あてもなく長い長い散歩を重ねる。キズキを失うことで損なわれた部分をいたわり合うような巡礼のような季節をめぐる<東京散歩>。 映画ではそれをあっさりと描き、直子の20歳の誕生日のシーンへとつなげる。ちょっと残念だったな。あと、直子の部屋で繰り返し聞かれる6枚のLPレコードも背景に入れてほしかった。
 ここで直子が持っていた6枚のアルバムはなんだったのだろうか想像してみる。2枚は小説に記述されている、ビートルズの『サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』とビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』だ。もう1枚はワタナベがクリスマスにプレゼントしたヘンリー・マンシーニの『ディア・ハート』の輸入盤だろう。直子の好きだったブラームスの『交響曲4番』もあったかもしれない。レイコさんが謂う<センチメンタルの地平>の直子の曲:ラヴェルの『死せる王女のためのパヴァーヌ』やドビュッシーの『ベルガマスク組曲・月の光』も持っていたかもしれない。ドビュッシーといえば、この小説のタイトルは元々『雨の中の庭』として綴られた話は有名だ。あとやはり『ラバーソウル』を直子は国分寺のアパートで聴くことはあったのだろう、キズキを想いながら…



・ワタナベの2回目の阿美寮の訪問について
 原作だとワタナベの冬の訪問の際、直子とセクシャルな交歓はするけど、性交には至らないし、ワタナベもそれを求めない。彼らは直子の20歳の誕生日の夜以外、交わるべきではないし、交わろうしてはいけない。そもそもの、直子の抱えた<闇>の意味が変わってしまう。直子はワタナベを愛していなかったと彼はモノローグするけど、ワタナベも歪んだカタチでしか彼女を愛せていない。それは、親友・キズキのカジュアリティーズとして、キズキのために懸命に生き抜こうとし、また、一緒に遺された直子を<引き受け>ようとした姿が、この物語のワタナベの直子への行動原理だと思う。
 それと、阿美寮の建物や内装にももう少し、原作の描写のような非日常感がほしかった。あそこは<あちら側>の端っこなワケだから。蛇足だが、阿美寮の立地についてのモデルは、80年代にハルキさんも気に入っていた「美山荘」という懐石料理で有名な旅館らしい。バスでのアクセスを見てみると確かに原作内の描写と合致する部分が多い。それを検証されたサイトで知った。この「東京紅團」とても楽しいサイトでオススメ。


・レイコさんについて
 彼女が阿美寮にいる理由である、虚言癖のレズ美少女のエピソードは簡単にでも触れてほしかった。レイコさんは単なる世話焼きおばさんじゃないんだから。それと、もう一度いうけど、『ノルウェーの森』は歌うべきではない。ギターの旋律演奏で歌うべき。レイコさんはピアニストだったのだから、それくらいのギターテクは習得できた筈だ。カタカナで「アーイ・ワンス・ハッダ・ガール…」って歌われても興ざめだ。ビートルズのオリジナル楽曲を主題歌に出来たのだから、なおさらだ。
 また、三鷹のワタナベの部屋をレイコさんが訪ねるシーン。直子の関してお互いを<許しあう>しるしとして、ふたりが交わるのはひとつの通過儀礼だと思うが、その前の50曲歌う「寂しくない葬式」はカットすべきではなかったと思う。そもそも、映画ではワタナベはレイコさんとのセックスに対して、最初は消極的だ。レイコさんも自分のミソギのために寝ようとしている。これでは、この挿話の意味がまったく違ってしまう。すべからくレイコさんのキャラづけが映画だとあまりにも貧相過ぎる。


・ワタナベのミドリ宅の訪問について
 やはり、ミドリの家の調理器具はプロ仕様にしてほしかった、説明いらないから。狭いLDKをぐるぐる歩きながら交わす会話のカメラワークは面白かったけど、物干しでの火事見物→何となくキスの流れは改変してほしくなかったなあ。充分に映画的なシークエンスになると思うのだが…。あと、ミドリのお父さんのお見舞いで、ワタナベくんには「海苔巻きキウリ」を食べて欲しかった。ここを巧く語ると、ミドリがなぜワタナベに信頼を寄せたか、すんなり納得できるストーリーになると思う。


・ワタナベのいる学生寮について
 村上春樹が実際に入寮していた「和敬塾」をそのまま再現しろとは言わないが、劇中の寮はアメリカの昔の大学のドミトリーのようだった。あんまり、居心地が悪そうではなく、胡散臭くもない。壊滅的に不潔でもない。だから、突撃隊の存在理由がなくなる。そして、蛍のシーンもない。蛍は直子が<向こう側>へ行きそうになる象徴だったと思うから、結構重要なシーンだと思うが。『ノルウェイの森』の元となる短編のタイトルはそもそも『蛍』だし…。


・DUGでミドリと昼飲み
 内田先生も言っていたけど、ファンとしては店内を再現してほしかった、これはあまり内容とはリンクしないかもしれないがw