1Q84読中メモ BOOK1(天吾)

第2章(天吾)ちょっとした別のアイデア
 トラウマの発作として原初の記憶を持つ駆け出しのライター・天吾の章。
 物静かで思慮深い彼は村上の往年の主人公を自然と思い出させる。編集者・小松との会話は「ノルウェイの森」のワタナベ君と永沢さんを思わせる。

〜「問題がふたつあります。もっとたくさん問題があるはずだけど、とりあえずふたつだけにしておきます。〜」

天吾が慎重に選んだ言葉。
 人妻との逢瀬を重ねる彼は、「蜂蜜パイ」「日々移動する腎臓のかたちをした石」の淳平も想起させる。
 共同作業としてのコンテンツ作成が1984年時文学界にあったかは定かではないが、仕組まれた17歳の<ふかえり>の『空気さなぎ』で芥川賞を狙うとは、ハルキさんの文壇のとらまえ方は昔から一環してるなあ。


第4章(天吾)あなたがそれを望むのであれば
 往年の村上小説の主人公よろしく天吾が巻き込まれ型のキャラとして話が進んでゆく。

〜天吾は首を振った。一蓮托生? やれやれ、いったいいつからそんな大層なことになってしまったんだ。〜

という、懐かしのフレーズも口にされる。(ニヤリ)
 そして初期の村上作品の物語のキーワードとして印象深い言葉、

〜十七歳の少女を目の前にしていると、天吾はそれなりに激しい心の震えのようなものを感じた。〜

も満を持して登場する。
 ふかえりは説明不足にひらがなで話す。天吾はふかえりの台詞にまるでWeb文中のリンクが補完説明するように、会話を丁寧に重ねてゆく。ふかえりに野島伸司の「ラブシャッフル」のタナトスを見ることができる<カイリ>の像が僕にはダブった。
「リトル・ピープルはほんとうにいる」と彼女はつぶやく。TVピープルを自然に想起。
 そして彼女は天吾にある人物にあってほしいと告げる。うむ、「羊をめぐる冒険」的な展開っすね。

 この読中メモは本当に一章一章読みながら書いている。読み急ぐ気持ちを抑制しながら、ひとつのチャプターを読了するともう一度読み返し、内容や文体を僕なりに検証してこの文章を綴っている。こんな小説の読み方は僕自身初体験だ。そして「1Q84」という小説にとってそれが正しい(少なくとも意味のある)方法なのかも勿論解らない。でもファンとしてもう20年以上の『春樹体験』が僕の中におりをなしていることは確かだし、それらと照合しながら読み進めメモをすることを僕は始めてしまった、特に理由はないけど。またいつ我慢できなくなって物語の流れに身をゆだねるかもしれないけど。


第6章(天吾)我々はかなり遠くまで行くのだろうか?
 天吾が『空気さなぎ』を書き直すシステマチックで丁寧な過程は、村上自身の小説の推敲を連想させる。
 この後物語は『空気さなぎ』が作られていくストーリーと共に、ふかえりのいた(であろう)山中のコミューンがキーとなって展開していくのだろうか。
 天吾が買ったワープロはオアシス? ってことは、彼は「親指シフト」の使い手! 80年代だね〜。

〜それは意味性の縁を越えて、虚無の中に永遠に吸い込まれてしまったようだった。冥王星のわきをそのまま素通りしていった孤独な惑星探査ロケットみたいに。〜

 今の我々はそのロケットがある意味正しいことを知っている。冥王星はもう太陽系の惑星から外されてしまったのだから。


第8章(天吾)知らないところに行って知らない誰かに会う
『空気さなぎ』執筆の秘密の輪郭が、天吾とふかえりの会話のしじまにあぶり出され、彼女の独特のコミュニケーションの<理由>も推察されていく。
 日曜日を忌み嫌う天吾の過去が語られる。父にまつわる子供の頃の記憶。

〜彼の意識は記憶の羊水に浮かび、過去からのこだまを聞きとっている。しかし父親は、天吾がそんな光景を鮮明に頭に焼きつけていることを知らない。彼がその情景の断片を野原の牛のようにきりなく反芻し、そこから大事な滋養を得ていることを知らない。父子はそれぞれに深く暗い秘密を抱き合っている。〜

 先生に会うために天吾とふかえりを乗せた中央線は多摩を進んでゆく。
「こわがることはない。いつものニチヨウじゃないから」とふかえりが天吾にささやく。


第10章(天吾)本物の血が流れる実物の革命
 以前、村上春樹がどこかのインタビューで、今度の長編に関して応えるなかで、石原都政を一種のファシズムとして語る言葉が印象的だった。先頃のイスラエルでの文学賞受賞スピーチの「システムとしての壁」批判の記憶は新しい。だから今度の彼の長編は、間違いなく政治的色合いを帯びるものと皆が予想していただろう。
1Q84』はこの章でそのフェーズを垣間見せる。でも村上は左右の単なるイデオロギーの問題として政治を語らない。システムの原理にすり潰されていく個人を見据えて物語を紡いでゆく。
 天吾と先生の対面によってふかえりのバックボーンが明らかにされてゆく。ヤマギシ会的コミューンがふかえりを育て、そして彼女も1Q84の落とし子だったのだ。
 共鳴し合うふたつの物語。

〜ただ物音ひとつしないというだけではない。沈黙自体が自らについて何かを語っているようだった。天吾は意味もなく腕時計に目をやった。顔を上げて窓の外の風景に目をやり、それからまた腕時計を眺めた。時間はほとんど経過していなかった。日曜日の朝は時間がゆっくりとしか進まないのだ。〜


第12章(天吾)あなたの王国が私たちにもたらせられますように
 政治と宗教は似ている。そのドグマが急進的な時、否応なくそれに属するものと、周りの人や状況を飲み込んでいく。そして自分の意志とは無関係に巻き込まれた子供には、深い禍根を残すのかもしれない。
 ふかえりは宗教に多くのものを奪われた子供だった。『空気さなぎ』は、そんな彼女がたどたどしく語らずにはいられない物語だった。物語を削り出すことが「回復」の手立てだった。

〜「私の専門は文化人類学だ」と先生は言った。「学者であることは既にやめたが、精神は今でも身体に染み着いている。その学問の目的のひとつは、人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすることだ。そうすることによって人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できるのかもしれない。〜中略〜おそらくそれと同じ作業を君は要求されている」
 天吾は両手を膝の上で広げた。「むずかしそうです」〜

 そして『空気さなぎ』は天吾によって再構築されていく。


第14章(天吾)ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないものごと
 電車の女性週刊誌の中吊りに「新刊『1Q84』を読む前に村上春樹必修ネタ」という見出しがおどる。100万部を超え、この小説は「現象」となりつつあるようだ。まずいな、『ノルウェイの森』の時のように、ハルキさん、またへそ曲げてこもったり、疲弊して頭の中に2匹の蜂が飛ばなければいいけど…。
 編集者・小松に天吾は『空気さなぎ』の経過報告をし、プロジェクトの危うさを説くが、もう引き戻しは不可能だと小松はきかない。
 そしてこの章では天吾の父からの自立と思春期が語られる。

〜物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。〜中略〜それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。〜中略〜そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。〜

天吾が物語にのめり込んだ理由。それはふかえりにとっての「空気さなぎ」であり、村上の持つ小説観を伺わせる。
 天吾の章にも「シンフォニエッタ」が響き始めた。
 

第16章(天吾)気に入ってもらえてとても嬉しい
 15章に続き、この章も物語のジャンクション的なチャプターとして、テンションがゆるめられる。小松の画策する「プロジェクト」は、先生をも巻き込み一層加速していく。天吾とふかえりは小松に言われて「打ち合わせ」をする。
 ふかえりが口にする「めくらの山羊」は村上の短編(『ノルウェイの森』にも取り込まれた)『めくらやなぎと眠る女』を思い出す。差別用語と指摘する天吾が可笑しい。ハルキさんの昔の作品には知ってか知らずかよく共同通信記者ハンドブックが規定する「差別用語」が出てきたものだ。

〜カウンターに一人で座り、何を思うともなく自分の左手をひとしきり眺めていた。ふかえりがさっきまで握っていた手だ。その手にはまだ少女の指の感触が残っていた。それから彼女の胸のかたちを思い浮かべた。きれいなかたちの胸だった。あまりにも端正で美しいので、そこからは性的な意味すらほとんど失われてしまっている。〜


第18章(天吾)もうビッグ・ブラザーの出てくる幕はない
 ふかえり『空気さなぎ』がセンセーショナルなデビューを飾るが、彼女は特に意に介さない。先生は天吾に今回のプロジェクトの彼なりの目論見を語る。

「〜深い池に石を放り込む。どぼん。大きな音があたりに響き渡る。このあと池から何が出てくるのか、私たちは固唾を呑んで見守っている」
 しばらく全員が黙っていた。三人はそれぞれに、水面に広がっていく波紋を思い浮かべていた。天吾はその架空の波紋が落ち着くのを見計らって、おもむろに口を開いた。〜

 ジョージ・オーウェルの『1984年』でビック・ブラザーが世を覇したように、ふかえりの見ることができるリトル・ピープルが1Q84年には巣喰っているらしい。物語は進む。


第20章(天吾)気の毒なギリヤーク人
 眠れない夜、天吾のアパートでふかえりと彼は物語の世界に身を沈める。
 天吾の求めに応じて、ふかえりは『平家物語』の壇ノ浦での安徳天皇の入水自害の段を暗誦する。村上の著作で実在の物語が2ページにわたって引用されるのは初めてではないか。「世の趨勢によって追い詰められる命」が村上春樹のこの小説の最後のキーとなっていくのだろうか。『ノルウェイの森』で直子のいる施設に向かう前、暗示的にワタナベ君はトーマス・マンの『魔の山』を読みふけっていた。すぐれた小説に無意味な引用はあり得ない。
 天吾はふかえりのために本棚から吟味して『サハリン島』を要約しながら読んできかせる。19世紀の人気作家・<チェーホフの極東・サハリン滞在記らしい。チェーホフが何故サハリンに行ったのかとふかえりに訊ねられた天吾は、その動機のひとつは地図でサハリン島の形を見ていて、どうしても行きたくなったのではないかと推察する。
 村上自身紀行本『地球のはぐれ方』の中で、実際にサハリンを訪ない、生のサハリン感を綴っているのだが、そこでもチェーホフのこの実務的な滞在記に触れ、『1Q84』の天吾と同じような解釈をしている。

 もっとも往々にして村上のほとんどのエッセイが十割ホントウなことは珍しいと思う。わずかにフィクションをまぎれ込まして巧妙ずらして世界を描く。<要約・参考>された『サハリン島』自体、そこには村上イズムの脚色は避けがたく加わっているのだろう(チェーホフ読んだことないもので僕には検証できないけど)。
 実際、僕は身をもって(?)そんなハルキさんのウソを経験したことがある。
 あるエッセイの中で、アリゾナにいた村上がアメリカの地図を見ていて、サハリンに誘われたチェーホフよろしくどうしても行きたくなり、サウスカロライナ州チャールストンに突発的に訪れる話がある。魅力的な古き良きアメリカの匂いを携えた町並みを、彼はたいへん気に入ったようで、食欲を刺激する南部魚料理を出すレストラン、そして幽霊の出る旅館などが、彼にしては珍しく実名で紹介されていた。
 僕は何年か前、チャールストンに行く機会があり、わざわざハルキさんご推奨のそれらの店や宿をメモしていった。確かにチャールストンはなかなか歴史のある趣のある街だった。そしてご推薦のレストランはちゃんとあったが、おいしそうに描写されていた料理はメニューになかった。また、彼の泊まったとするINNは存在しなかった。エッセイが書かれてから十年以上経っていたので閉館したのかと思い、街の観光協会に訊いてみたけど見つからなかった(窓口の女性は、そんな名前の旅館は、この街に存在したことはありませんと断言していた)。
 村上は引用と事実の中に小説家的ズラしをしのばせ、実に上手に嘘をつく。
 デビュー作『風の歌を聴けからして、架空の小説家、デレク・ハートフィールドという作家の多くの文章を<引用>して、初めての小説執筆のモチベーションとして物語の中で語った(そして当時の評論家の何人かはまんまとハルキさんにだまされた)。

〜「正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うのと同じことなんだ。それは犯罪だ」
 ふかえりはしばらくそれについて考えていた。
「僕らの記憶は、個人的な記憶と、集合的な記憶を合わせて作り上げられている」と天吾は言った。「その二つは密接に絡み合っている。そして歴史とは集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる」〜

 オーウェルの『1984年』のあらすじをふかえりに説明した後、天吾は説明する。記憶のすり替え、再定義、そして記憶の集合体としての歴史、記憶の改ざんから生じる歴史の再編集…。パラレルワールド1Q84世界も神の手なる誰かの記憶のリミックスなのだろうか。いずれにしても、このチャプターは小説『1Q84』にとってポイントとなる章のような気がする。


第22章(天吾)時間がいびつなかたちをとって進み得ること
 天吾は脳について思索し、それが生み出す時間と空間と可能性の観念が、ヒトをヒトたらしめてると考える。その観念によって主観的に時間性を変更調整して、せっせと記憶の積み直しを人間はしている。
『空気さなぎ』はベストセラーランキングをひた走り(現実世界の『1Q84』のようだ)、ふかえりは失踪してしまう。

〜ふかえりはきっと特別な存在なんだ、と天吾はあらためて思った。ほかの少女たちと比べることなんてできない。彼女は間違いなくおれにとって、何らかの意味を持っている。彼女はなんて言えばいいのだろう、おれに向けられたひとつの総体的なメッセージなのだ。それにどうしてもそのメッセージを読み解くことができない。〜

 天吾くん、それを恋と呼ぶのだよ普通。


第24章(天吾)ここではない世界であることの意味はどこにあるのだろう
 いよいよBOOK1最後の章。
 冒頭にこの章の時点が7月半ばであると記される。ん? BOOK1<4月-6月>と表紙にあるけど…。時制にこだわる村上春樹がこんなケアレスミスを犯すわけもなく、きっと意識的記述だろう。もう時間がいびつなかたちをとって進み始めているということだろうか。
 ふかえりはギリヤーク人のように「広い道路から離れて歩いているだけ」で、自ら身を隠していることが判明する。大事なモノは森の中にあり、リトル・ピープルは森に潜み、ふかえりは森を抜けるすべを探している。『海辺のカフカ』でカフカやナカタさんが分け入った四国の森を自然に思い出す。
 年上のガールフレンドはピロートークで天吾にささやく。

〜「ねえ、英語のlunaticとinsaneはどう違うか知ってる?」と彼女が尋ねた。
「どちらも精神に異常をきたしているという形容詞だ。細かい違いまではわからない」
「insaneはだぶんうまれつき頭に問題があること。専門的な治療を受けるのが望ましいと考えられる。それに対してlunaticというのは月によって、つまりlunaによって一時的に正気を奪われること。十九世紀のイギリスでは、lunaticであると認められた人は何か犯罪を犯しても、その罪は一等減じられたの。その人自身の責任というよりは、月の光に惑わされたためだという理由で。信じられないことだけど、そういう法律が現実に存在したのよ。つまり月が人の精神を狂わせることは、法律の上からも認められていたわけ」〜

 近畿地方の方言で「てんご」は、いたずら、悪ふざけという意味があったりする。
 ようやくBOOK1全24章読了。6月2日から読み始めて20日弱、随分時間がかかった。ようやく半分というか、物語的にはまだ展開が半ばと考えるとBOOK2も楽しみ。