1Q84読中メモ BOOK2(青豆)

BOOK2<7月-9月>に突入。村上春樹の著作で分冊された長編のうち、『ダンス・ダンス・ダンス』『海辺のカフカ』はそれぞれ上・下で、章の番号も通しで書かれた。『ねじまき鳥クロニクル』は第1部・第2部で発表され、チャプターはそれぞれふられていた。そして時期を開けて第3部が発表された。ってことは、『1Q84』は必ずしも2冊じゃ終わらないということだろうか。
 ともあれ、BOOK2。

第1章(青豆)あれは世界でいちばん退屈な町だった
 老婦人の屋敷に呼び出された青豆はめずらしく憔悴した様子のクライアントと対峙する。残された不吉なサインは老婦人を揺さぶる出来事を引き起こしていた。
 経過した状況と判明した情報を説明した後、老婦人は今一度、青豆に「仕事」完逐の覚悟を確認する。青豆も決意を新たにする、ある悲壮な決志をもって。
 屋敷のボディガード・タマルと青豆のハードボイルドな会話。

〜青豆はワンピースの袖をなおし、ショルダーバッグを肩にかけた。「そしてあなたはそのことを気にしている。もし拳銃が登場したら、それはどこかで発泡されることになるだろうと」
チェーホフの観点からすれば」
「だからできることなら私に拳銃を渡したくないと考えている」
「危険だし、違法だ。それに加えてチェーホフは信用できる作家だ」
「でもこれは物語じゃない。現実の世界の話よ」
 タマルは目を細め、青豆の顔をじっと見つめた。それからおもむろに口を開いた。「誰にそんなことがわかる?」〜

 物語は、「ふかえり」のラインでも(青豆)の章に浸食していくイメージを提示し始めた。


第3章(青豆)生まれ方は選べないが、死に方は選べる
 梅雨の明けた澄み渡った夜空の月たちを見上げて青豆は思う。
 親との縁を切り孤独に生きてきた自分。自ら命を絶った高校時代からの唯一の親友。出会いは行きずりの軽いものだったが、青豆のことを思ってくれているあゆみ。「仕事」の準備の進捗を淡々と伝えるが、分かち合える部分の多い老婦人。青豆の無理な依頼を反対しながらも、プロフェッショナルに無駄なくレクチャーするゲイのボディガード。

〜月を眺めているうちに、青豆は昨日感じたのと同じような気怠さを身体に感じ始めていた。もうこんな風に月を見つめるのはやめなくてはと彼女は思った。それは私に良い影響を及ぼさない。しかしどれだけこちらから見ないように努めても、月たちの視線を皮膚に感じないわけにはいかなかった。私が見なくてもあちらが見ているのだ。私がこれから何をしようとしているのか、彼らは知っている。〜

 そして彼らはまた青豆の大事なものをひとつ奪った。


第5章(青豆)一匹のネズミが菜食主義の猫に出会う
 ひとりぼっちに戻ってしまった青豆は気持ちと部屋の整理を進める。青豆は来るべき「仕事」のために準備を整える必要があった。さまざまなものをそぎ落としていく過程は、自然に自己の内面に向き合う作業を伴っていく。そして自分という存在の中心にある、青豆を支える愛する男のことを今一度認識する。

〜絵の一枚もかかっていないし、花瓶のひとつもない。金魚のかわりに買った、バーゲン品のゴムの木がベランダにひとつ置かれているだけだ。そんなところで自分が何年も、とくに不満や疑問を感じることもなく日々を送っていたなんて、うまく信じわれなかった。
「さよなら」と彼女は小さく口に出して言った。部屋にではなく、そこにいた自分自身に向けた別れの挨拶だった。〜

第7章(青豆)あなたがこれから足を踏み入れようとしているのは

〜ホテル・オークラ本館のロビーは広々として天井が高く、ほの暗く、巨大で上品な洞窟を思わせた。ソファに腰をおろして何ごとかを語り合う人々の声は、臓腑を抜かれた生き物のため息のようにうつろに響いた。カーペットは厚く柔らかく、極北の島の太古の苔を思わせた。それは人々の足音を、蓄積された時間の中に吸収していった。〜

 冒頭、村上春樹お得意の雰囲気メタファーを駆使した風景描写が続く。青豆はそんな荘厳なロビーで「ターゲット」の使者を待つ。二人の、いかにもの男が現れ、青豆を部屋へ誘う。幾分の緊張が最初はあったが、彼女はいつもの「仕事」の時のマインド・セッティングに戻す。
 そしていよいよ青豆は「領域」に足を進めることとなる。


第9章(青豆)恩寵の代償として届けられるもの
 村上春樹小説世界においては、主人公のキーパーソンとの対面は、ほとんど光のないホテルの部屋で描かれることが多い。『ダンス・ダンス・ダンス』では、いるかホテルの時折つながる真っ暗な異空間で、羊男はじっと主人公を待っていて、彼を最後の冒険へ誘う。『ねじまき鳥クロニクル』では、カティーサークがベッドサイドに置かれた208号室で、トオルは電話の女に物語のヒントをもらう。
『1Q84』では、青豆がホテル・オークラのスイートルームの暗闇の中、「ターゲット」といよいよ対峙する。「リーダー」と呼ばれるこの小説の<黒幕>が、物語の四分の三をむかえてようやく姿を現す、光のほとんどない部屋の中だけど。村上ワールドでは、ホテルの暗闇は「あちら側」を意味するのだが。

〜そのリズミカルな、また多くの意味を含んだ反復は、青豆を落ち着かない気持ちにさせた。これまで見聞きしたことのない領域に足を踏み入れたような気がした。たとえば深い海溝の底であるとか、あるいは未知の小惑星の地表であるとか。なんとか到達することはできても、もとに戻ることのかなわない場所だ。〜


第11章(青豆)均衡そのものが善なのだ
 ターゲットの黒幕に対して、青豆は表の仕事の作業をプロフェッショナルに進めていく。そして老婦人から依頼された、裏の仕事に段階を進めるが、青豆を何かが躊躇させる。すべて黒幕に把握されているような気がする。
 探り合ううち、黒幕は青豆に彼女と同じように、この世界において<天吾>も重要な役割を持っていると告げる。そして黒幕から、青豆のいるこの世界を指して<1Q84年>という言葉が出た。青豆が自分だけに便宜的に置いた言葉なのに。

〜「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男はいった。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動き回る善と悪のバランスを維持しておくことだ。〜」


 今日、電車の座席で隣の初老の男性の読んでいる本をふと見ると『1Q84』だった。こういう現象をベストセラーというのだろうなあ。彼は僕より少し先の章を読んでいた。


第13章(青豆)もしあなたの愛がなければ
 2冊通して全48章の物語は、37番目の章をむかえていよいよ核心が語られることになる。1Q84世界の成り立ち、リトル・ピープルと呼ばれるものが意味すること、青豆・天吾・ふかえりの関係性とそれぞれに課された役割、「黒幕」の後ろにあるモノ、パシヴァとレシヴァ。
 リトル・ピープルが中空から紡ぎ出す<空気さなぎ>は、ハルキさんがよく言う【物語】そのものかもしれない。ウイルスのように我々の世界に巣くうコトモノへの「抗体」としての物語、うむ、『1Q84』自身が<空気さなぎ>だったのか。
 大枠の謎が説明され、物語の構造も明らかにされた。それでもまだ多く残る、コトバや出来事のシニフィアンは、残り200ページで回収され、あるべき位置に納まるのだろうか。さて。村上春樹、腕の見せ所である。

〜青豆は目を閉じて、一瞬のあいだに長い歳月を振り返り、見渡した。高い丘に上がり、切り立った断崖から眼下に海峡を見渡すみたいに。彼女は海の匂いを感じることができた。深い風の音を聞き取りことができた。
 彼女は言った。「私たちはもっと前に、勇気を出してお互いを捜しあうべきだったのね。そうすれば私たちは本来の世界でひとつになることもできたのに」〜

 青豆は後悔する。でも1Q84ではもうどうすることもできない。彼女は二者選択を迫られ、決断することになる。


第15章(青豆)いよいよお化けの時間が始まる
 青豆は「仕事」を終えてホテル・オークラを後にする。1Q84世界はリトル・ピープルがもたらしたゲリラ豪雨交通機関が混乱していた。青豆はタクシーに乗り込むと、運転手は赤坂見附の駅に大量の雨水が流れ込んで地下鉄がストップしていると教えてくれる。我々が記憶している台風で地下鉄の赤坂見附駅が水没した出来事は、調べてみると1993年の8月だったようだ。リトル・ピープルは時間の流れを不均一にゆがめることもできるらしい。
 青豆はタクシーを乗り継ぎ、クライアントの老婦人の用意した高円寺のセーフハウスにたどり着く。高円寺? 天吾くんのアパートって高円寺?、阿佐ヶ谷だっけ? とにかく、青豆はBOOK1の冒頭のように、ハードボイルドで「クールな青豆さん」に戻り、そして逃亡者になった。最初の青豆と異なる点は、確固たる愛を自覚していることだ。これって、おおきい。

〜それに考えてみれば結局のところ、我々の生きている世界そのものが、巨大なモデルルームみたいなものではないのか。入ってきてそこに腰を下ろし、お茶を飲み、窓の外の風景を眺め、時間が来たら礼を言って出て行く。そこにあるすべての家具は間に合わせのフェイクに過ぎない。窓にかかった月だって紙で作られたはりぼてかもしれない。〜

第17章(青豆)ネズミを取り出す
 青豆もセーフハウスで朝を迎える。そして老婦人のボディガードから電話がかかってくる。青豆を実の娘のように思う老婦人との、たぶん、最後の会話。青豆と老婦人はとても特殊な関係ではあったが、何かを共有することができた相手であり、青豆にとって現実世界への数少ないジャンクションでもあった。

〜「お元気で」青豆は言った。
「あなたこそお元気で」と老婦人は言った。「できるだけ幸福になりなさい」
「もしできることなら」と青豆は言った。幸福というのは青豆から最も遠くにあるものごとのひとつだった。〜

 普段は身の上話など一切しないボディガードが青豆に子供の頃の出来事を話す。サハリン出身で孤児院育ちの彼がいた施設に、何をしてもからきし駄目だが、彫刻だけ卓越して上手な男の子がいた。いじめにあっていたその子を、体躯の大きかったボディガードは、いきがかりで守っていた。その子はネズミしか彫らなかった。木の塊をしばらくにらんで、イメージが見えてくると木の中からまるで取り出すようにねずみを彫った。ある種の天才的な仏師がそうであるように。施設を逃げ出したきりその子の行方は知らないが、ボディガードはその子のことは明確に覚えていると語った。老婦人もボディガードも青豆に伝えたかったことは、お互いかなり特殊な関係だが我々はファミリーだということ。青豆もそれをしっかり受け止める。
 セーフハウスの部屋の備品を青豆がチェックしていると、本棚にふかえりの『空気さなぎ』があることに気づく。


第19章(青豆)ドウタが目覚めたときには
 青豆は『空気さなぎ』を読み進めていく。僕たちはようやくその小説がどんな物語なのかを垣間見ることができる。
 さて、純粋なメモ:空気さなぎ→ドウタを生成 ドウタ(分身)=マザ(実体)の心の影 リトル・ピープルの入り口=パシヴァ(知覚するもの)→レシヴァへ伝達 ん〜ん? こうしてメモると訳わかんないな。
『空気さなぎ』ないしは『1Q84』という小説を映像化するとどうなるかを想像してみると、やはりリトル・ピープルの表現がネックなるなるかもしれない。描写をそのまま画にしてみたら結構マヌケだ。ウンバ・ルンバになっちゃう。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の中のやみくろが映像化できないのと同じだ(みんなまっくろくろすけを思い浮かべてしまうしさ)。早稲田で映画の脚本を読みふけったハルキさん、映像に落とし込めない世界を文章で表現することが(リュミエール兄弟以降の)小説が成立する要件のひとつであることも忘れないなあ。
『空気さなぎ』に手を加えたあと、それに感化されて湧き出るように天吾が自分の小説を書きためていたけど、それが『1Q84』の(青豆)の章自体で、青豆がその中で自分が物語の中の人物だと自己認識しているとすると、このお話、かなり複雑な構造になる。あくまで勝手な仮説ですが。
 青豆は分析する。

〜いずれにせよ、『空気さなぎ』という物語が大きなキーになっている。
 すべてはこの物語から始まっているのだ。
 しかし私はこの物語のどこにあてはまるだろう?〜


第21章(青豆)どうすればいいのだろう
 ベランダのガーデンチェアでふたつの月を眺めながら、青豆は自分の部屋に残してきた哀れなゴムの木のことを思う。彼女が所有したただひとつの生命だ。決して丁寧に育てた訳ではないが、こうして追われる身になると妙に気になった。

〜彼女は泣きたくなんかなかった。あのろくでもないゴムの木のことを考えながら、どうして私が涙を流さなくてはならないのだ。しかしこぼれ出る涙を抑えることができなかった。彼女は肩を震わせて泣いた。私にはもう何も残されていない。みすぼらしいゴムの木ひとつ残されていない。少しでも価値のあるものは次々に消えていった。何もかもが私のもとから去っていった。〜

 青豆はベランダから外を眺めていて、自分と同じようにふたつの月を眺めている男性がいることに気づく。瞬間、その人が自分にとって大切な人だとわかる。
 青豆はこのあと、どうすればいいのだろう? と4回繰り返し逡巡する。青豆の中の女の子が決心を鈍らせる。


第23章(青豆)タイガーをあなたの車に
(青豆)の章ラスト、いよいよ大詰めだ。
 用意ができている青豆は、『華麗なる賭け』のフェイ・ダナウェイのように、クールでセクシーなビジネス・スーツを身にまとい、タクシーに乗る。そして<1Q84>の出発点を確認する。「リーダー」が言っていたように、それはすでに閉じられていた・・・。

〜しかしその中年の女性は、どうしても青豆から目をそらさなかった。青豆はあきらめて小さく首を振った。悪いけどこれ以上は待てない。タイムアップ。そろそろショーを始めましょう。
 タイガーをあなたの車に。
「ほうほう」とはやし役のリトル・ピープルが言った。
「ほうほう」と残りの六人が声を合わせた。
「天吾くん」と青豆は言った。〜