1Q84読中メモ BOOK2(天吾)

第2章(天吾)魂のほかには何も持ち合わせていない
 手塚治虫のある種のキャラクターは彼の作品を超越して登場する。ヒゲオヤジ、ロック、サルタ、ランプ、ヒョウタンツギ(?)…、いわゆるスター・システムだ。
 村上春樹の作品世界でも直接つながりのない小説間に同一キャラと思わせる人物がたびたび見受けられる。そして『1Q84』のこの章でもそんな人物である「牛河」がのっそりと現れる。
「牛河」は『ねじまき鳥クロニクル』の中で主人公に「黒幕」のメッセンジャーとして登場した。『1Q84』の牛河は天吾を予備校講師の控え室に訪ねてくる。彼は不吉で不快な使者として天吾に<警告>を残していく。

〜リトル・ピープルの知恵や力は先生やあなたに害を及ぼすかもしれない、ふかえりはテープの中でそう語っていた。もりのなかではきをつけるように。天吾は思わずあたりを見回した。そう、森の奥は彼らの世界なのだ。〜


第4章(天吾)そんなことは望まない方がいいのかもしれない
 天吾は、十歳の頃クラスのいじめから一度かばったことのある女の子のことをぼんやり考える。親の宗教に振り回されて教室で浮いていた子、誰もいない放課後黙って天吾の手をじっと握り何も言わずに去っていったあの子のことを時折気にして彼は生きてきた。そのまま音信不通になってしまった彼女と自分はもっと違った接し方ができたのではないかと後悔もする。
 天吾は知らない、その子にとっても彼は生涯ただ一人の愛した男性であることを。

〜時間というものは、人為的な変更を片端からキャンセルしていくだけの強い力を持っている。それは加えられた訂正に、更なる訂正を上書きして、流れを元どおりに直していくに違いない。多少の細かい事実が変更されることはあるにせよ、結局のところ天吾という人間はどこまで行っても天吾でしかない。
 天吾がやらなくてはならないのはおそらく、現在という十字路に立って過去を誠実に見つめ、過去を書き換えるように未来を書き込んでいくことだ。それよりほかに道はない。〜


第6章(天吾)我々はとても長い腕を持っています
 編集者・小松から送られてきた『空気さなぎ』の書評の束を読んで天吾は思う。

〜『空気さなぎ』を読み終えて「ミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままに」なっている善男善女に対し、天吾は同情の念を抱かないわけにはいかなかった。カラフルな浮き輪につかまった人々が困った顔つきで、疑問符だらけの広いプールをあてもなく漂っている光景が目に浮かんだ。空にはあくまで非現実的な太陽が輝いている。天吾はそのような状況を世間に流布する一端を担った人間として、まったく責任を感じないというのではなかった。〜

 ハルキさん、大丈夫だろうね? 『1Q84』自体がクエスチョンの大行進として終わらないだろうね? ちょっと不安になる。過剰に散りばめられたシニフィアンはちゃんと回収されるのだろうか。
 そして天吾はエアーポケットに入ったかのような静かで無機質な日々を過ごす。誰も彼に連絡してこない、語りかけてこない。 そんな中、火曜日にたて続けに電話が2本かかってくる。村上春樹世界では不吉な電話は火曜日に鳴るものと決まっている。別れの通告と最後通牒、そして天吾もひとりきりになってしまった。


第8章(天吾)そろそろ猫たちがやってくる時刻だ
 ひとりポツネンとしてしまった天吾は目的なく外出する。そして何かに導かれるように、父親のいる千倉を訪ねる。(千倉は安西水丸氏の故郷で、ハルキ・水丸がふたりで行った『村上朝日堂』のエッセイが懐かしい)
 失われるべき場所にいる変わり果てた父親と天吾は向き合う。そして自分自身を愛するために必要な真実を求めて天吾は父を詰問する。退行する記憶と共に失われてしまう真実をつなぎとめるために、生まれて初めて父と積極的な会話をする。そして父親から天吾は、お前は何ものでもないと言われる。

〜天吾は息を呑み、少しのあいだ言葉を失っていた。父親もそれ以上口をきかなかった。二人は沈黙の中でそれぞれにもつれあった思考の行方を探った。蝉だけが迷うことなく、声を限りに鳴き続けていた。
 この男はおそらく今、真実を語っているのだ、と天吾は感じた。その記憶は破壊され、意識は混濁の中にあるかもしれない。しかし彼が口にしているのはたぶん真実だ。天吾にはそれが直感的に理解できた。〜

第10章(天吾)申し出は拒絶された
 父親のもとから自分のアパートに戻り、天吾は深い眠りにつく。

〜翌朝、八時過ぎに目を覚ましたとき、自分が新しい人間になっていることに天吾は気づいた。目覚めは心地よく、腕や脚の筋肉はしなやかで、健全な刺激を待ち受けていた。肉体の疲れは残っていない。子供の頃、学期の始めに新しい教科書を開いたときのような、そんな気分だった。内容はまだ理解できないのだが、そこには新たな知識の先触れがある。洗面所に行って髭を剃った。タオルで顔を拭き、アフターシェーブ・ローションをつけ、あらためて鏡の中の自分の顔を見つめた。そして自分が新しい人間になっていることを認めた。〜

 そして平穏な日々が過ぎ9月をむかえた頃、前触れなく天吾の部屋をふかえりが訪ねてくる。時を同じくして天吾の職場には不快な使者・牛河が最後の通告に来る。
 リトル・ピープルが騒ぎだしたとふかえりは言う。
「だからこそわたしたちはちからをあわせなくてはならない」局面に物語は進んでいく。


第12章(天吾)指では数えられないもの
 天吾が部屋に戻るとふかえりはシャワーを浴びた後だった。髪を上げた彼女はいつもと印象が違う。

〜おかげで耳と首筋がすっかりむき出しになっていた。ついさっき作りあげられて、柔らかいブラシで粉を払われたばかりのような、小振りなピンク色の一対の耳がそこにあった。それは現実の音を聞きとるためというよりは、純粋に美的見地から作成された耳だった。少なくとも天吾の目にはそう見えた。そしてその下に続くかたちの良いほっそりとした首筋は、陽光をふんだんに受けて育った野菜のように艶やかに輝いている。朝露とテントウムシが似合いそうな、どこまでも無垢な首だった。髪を上げた彼女を目にするのは初めてだったが、それは奇跡的なまでに親密で美しい光景だった。〜

 父親訪問から戻った天吾にふかえりは「お祓い」が必要だと言う。雷鳴が近づく中、リトル・ピープルたちが入り口を探している。ベッドの中のふかえりが初めて漢字を混ぜた台詞を言う。

〜「こちらに来てわたしをだいて」とふかえりは言った。「わたしたちふたりでいっしょにネコのまちにいかなくてはならない」〜

第14章(天吾)手渡されたパッケージ
 ふかえりとベッドの中で抱き合いながら天吾は、窓の外の激しい雷鳴にノアの洪水を思う。

〜もしそうだとしたら、こんな激しい雷雨の中で、サイのつがいやら、ライオンのつがいやら、ニシキヘビのつがいやらと狭い方舟に乗り合わせているのは、かなり気の滅入ることであったに違いない。それぞれに生活習慣がずいぶん違うし、意思伝達の手段も限られているし、体臭だって相当なものであったはずだ。〜

「テンゴくん」とふかえりは初めて天吾を名前で呼ぶ。記憶の依り代としてのふかえりは、天吾を10歳に引き戻し、放課後のあの記憶の世界に放り込む。パシヴァとレシヴァが感応し始める。天吾もあの子の名を思う、青豆と。そして彼女と会わなくてはならないと今更に、今だから、思う。
 三人称で物語られる村上春樹の世界において、主人公たちが呼び掛けるお互いの固有名詞は特別の意味を持つのかもしれない。
 物語の当初から抑揚なくひらがなでしゃべる美少女・ふかえりは、多くの人にエヴァンゲリオン綾波レイを想起させたことだろう。この章でふかえりは微笑み方を覚えた後の綾波に推移した(と僕は思う)。いやいや魂のルフラン


第16章(天吾)まるで幽霊船のように
 天吾は自分のアパートでふかえりと何も予定のない日の朝を迎える。彼女との会話は相変わらず暗示的・限定的で要領を得ない。編集者・小松と連絡を取ろうと出版社に電話するが、小松も「失踪」している。村上的、やれやれ、な状況だ。
 青豆の消息をあたるために天吾は電話局に赴き、珍しい名字「青豆」を電話帳で捜す。でも見つからない。ふたりが在籍した小学校に電話し、同窓会の幹事のふりをして当時の電話番号を聞くがその番号はもう使われていない。
 村上春樹のデビュー作の『風の歌を聴け』の中にも、レコードを借りたままになっている高校時代の同級生に連絡をとるために、ケチャップ会社の調査員のふりをして学校に、電話番号を訊くシーンが確かあったが、ま、個人情報保護法的セキュリティの概念などみじんもなかったよなあ、最近まで。新聞記事もそうだけど、電話番号や住所を調べるには、印刷物の索引をひとつひとつ当たらなくてならなかった時代って、そんなに前じゃないし。グーグルがあらゆる情報をデータベース化し、僕たちが欲望のままに情報を検索できる「動物化」には、1984年はまだ至っていなかった。マッキントッシュはふたりのスティーブによって産み出されていたけど、まだ我々の実生活的にはあまり関係のない話だった。
 収穫のないまま天吾が部屋に戻ると、ふかえりは床にそのまま座り古いジャズのLPを聴いていた。『1973年のピンボール』の双子や、ビル・エヴァンスを繰り返し聴く『ノルウェイの森』の直子など、LPレコードを丁寧に扱い針を落とす、村上小説の女の子たちは個人的にとてもセクシーだと思う。ふかえりのこのシーンを書きたくて、ハルキさん、今回の小説の舞台をまだCDがあまり普及していない1984年にしたんじゃないかとちょっと勘ぐってみる。

〜人の表皮細胞は毎日四千万個ずつ失われていくのだという事実を天吾はふと思い出した。それらは失われ、はがれ、目に見えない細かい塵となって空中に消えていく。我々はあるいはこの世界によっての表紙細胞のようなものなのかもしれない。だとすれば、誰かがある日ふっとどこかに消えてしまったところで不思議はない。〜


第18章(天吾)寡黙な一人ぼっちの衛星
 ふかえりの預言者的発言傾向はますます強くなっていく。天吾は青豆の記憶をたどる思考に集中するため、ふかえりを部屋に残して高円寺の町に出る。
 そして町の風景が描写される。テンションのかかっていた物語のテンポが緩められる。映画でいうと情景挿入カット。粒子の粗い映像にフォーカスを甘くして整音をオフ気味にした感じのシーン。天吾の思考はぼそぼそとしたモノローグが似合うかもしれない。それにしても天吾の入った居酒屋「麦頭(むぎあたま)」はどうしてわざわざ2回も店名が表記されたのだろう?
 天吾の思考は「月」にたぐり寄せられる。

〜その無感覚な灰色の岩塊は、まるで目に見えぬ糸にぶらさげられたようなかっこうで、所在なさそうに空の低いところに浮かんでいた。そこには何かしら人工的な雰囲気が漂っていた。ちょっと見たところ、芝居の小道具で使われる作り物の月のように見えた。しかしもちろんそれは本物の月だった。当然のことだ。誰も本物の空にわざわざ手間暇かけて、偽物の月を吊したりはしない。〜

 天吾は近所の公園からふたつの月を眺めていた。


第20章(天吾)せいうちと狂った帽子屋
 これまででいちばん短い章。スライドしてしまったこの世界の事実確認と、小説全体へのアクセントか。まあ、テレコでふたつの物語を重ねてきた訳だから、こういった「調整」も必要なのだろう。とにかく、残りページも少ないので、ここから怒濤のエンディングへ僕らを連れていって下さいな、ハルキさん。

〜しかし目に映るのはごく当たり前の都会の住宅地の風景だった。変わったところ、普通ではないところはひとつとして見受けられない。トランプの女王も、せいうちも、狂った帽子屋も、どこにもいない。彼を囲んでいるのは、無人の砂場とぶらんこ、無機質な光を振りまく水銀灯、枝を広げたケヤキの木、施錠された公衆便所、六階建ての新しいマンション(四戸だけ明かりがついている)、区の掲示板、コカコーラのマークがついた赤い自動販売機、違法駐車している旧型の緑色のフォルクスワーゲン・ゴルフ、電信柱と電線、遠くに見える原色のネオンサイン、そんなものだけだった。いつもの騒音、いつもの光。〜

 天吾は状況を把握するために、今一度周りを見回す。いつもと同じ風景。佐野元春の『情けない週末』の歌詞みたいですね。アリス世界の住人達はいない。帽子の中のヤマネは相変わらずまどろんでいるのかもしれなし、せいうちはカキの子供達をだませなかったのかもしれない。とにかく異世界のものはいない。風通の風景。ただ青豆が逃げ込んだマンションは6階建ての新築マンションだった。そして空には月がふたつ浮いている。


第22章(天吾)月がふたつ空に浮かんでいるかぎり
 天吾は部屋に戻ると、父のいる千倉の施設から電話があったことを知り、先方に折り返しかけてみる。そして父が原因不明の昏睡状態にあることを知る。60代だが、まるで生きる意志が薄くなったかのような、役目を終えて人知れず秘密の墓場へ向かうゾウのように、バイタルサインが落ちてるという。明日、千倉(ふかえりの中ではねこのまち)を訪れることを天吾は施設へ伝える。
『空気さなぎ』の中の「ふたつの月」が、天吾の住むこの世界まで浸食していること、レシヴァとパシヴァとしての天吾とふかえりについて、天吾はあれこれ考え、ふかえりに質問するが、彼女は相変わらず答えたいことしか答えようとしない。

〜情報は日々更新されている。彼だけがそれらについて何ひとつ知らされていない。
「原因と結果がどうしようもなく入り乱れているみたいだ」と天吾は気を取り直して言った。「どちらが先でどちらが後なのか順番がわからない。しかしいずれにせよ、僕らはとにかくこの新しい世界に入り込んでいる」
 ふかえりは顔を上げ、天吾の目をのぞき込んだ。気のせいかもしれないけど、その瞳の中には優しい光のようなものが微かにうかがえた。
「いずれにせよ、もう元の世界はない」と天吾は言った。
 ふかえりは小さく肩をすぼめた。「わたしたちはここでいきていく」
「月の二個ある世界で?」〜

 そしてふかえりは『羊をめぐる冒険』の<彼女>のように、美しい耳を髪から出して天吾にささやく。おなじではない。あなたはかわったと。


第24章(天吾)まだ温もりが残っているうちに
 いよいよBOOK2最後の章だ。
 父を見舞うため、天吾はひとり千倉の施設へ向かう。そして、静かに昏睡状態にある父親のベッドの脇で天吾は独白する。父親と別れて暮らすようになってからのこと、小学生の頃、自分は何を思って父の横を歩いていたか、ただ淡々と話していく。父の反応は勿論ない。
 検査のため空いたベッドに天吾のための<空気さなぎ>が出現する。その中には10歳の青豆が横たわっていた。天吾は決意を新たにする。僕は必ず君を見つける(天吾の一人称が<おれ>から<僕>に変わっている)。

〜月が見えなくなると、もう一度胸に温もりが戻ってきた。それは旅人の行く手に見える小さな灯火のような、ほのかではあるが約束を伝える確かな温もりだった。
 これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は目を閉じて思った。それがどのような成り立ちを持つ世界なのか、どのような原理のもとに動いているのか、彼にはまだわからない。そこでこれから何が起ころうとしているのか、予測もつかない。しかしそれでもいい。怯える必要はない。たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月のふたつある世界を生き延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。この温もりを忘れさえしなければ、この心を失いさえしなければ。〜

 というわけで、1ヶ月以上に亘り、『1Q84』を1章読むごとにこのブログにメモを書いてきた。こんな作業をしながら本を読んだのは初めての経験で、しんどくはあったけどなかなか楽しくもあった。自分の中の「村上春樹」体験を振り返ることもでした。おつかれさま→じぶん。
 しかしこの終わり方だと、多くの人はBOOK3が出ると期待するだろう。『ねじまき鳥クロニクル』が第3部で、シナモンとナツメグという新たなキャラクターを得たように、『1Q84』BOOK3があるとしたら、天吾とふかえりにどういったキャラクターが加わるのだろう。青豆の章の最後に出てきたぴかぴかのメルセデスに乗る婦人が重要な人物だったりして。
 想像は拡がる。BOOK3があるとしたら<10月ー12月>になるだろう。そう考えるとBOOK4はないわけ? 物語のステージが1985年に入っちゃうし。それともループして、1984年の1月から3月の物語をBOOK4とするのか。それも『1Q84』の構成から考えても面白いかもしれない。
1Q84』の作中、月のふたつある世界を呼称するとき、<1Q84年>と必ず年がついていたことも気になる。天吾たちがこれからも生きていくと誓った<世界>は、1年間を繰り返す、サザエさん・コナン・うる星やつら的時制なのかな? 1Q85年という世界が1Q84年と地続きになったとしたら、その時閉じられた1Q84が解放されるのかもしれない。
 以前村上春樹はインタビューで、今度の小説は『ねじまき鳥〜』よりも長いものになると明言していたから、『1Q84』のまだ発表されていない部分はきっとあるのだろう(構想だけだとしても)。でもこんなふうに200万部売れちゃって、みんなが続編あるっしょ!的な感想を抱くと、わかりやすいカタチでの『1Q84』の続きは発表されなくなっちゃうかもしれない、ハルキさんのこれまでの性向からして。『ねじまき鳥〜』から大幅削除された部分をベースにして『国境の南、太陽の西』という小説が生まれたように、『1Q84』の続編は別のカタチをとるかもしれない。
 さてさて。僕的には、この小説はしばらく寝かした後、今度は一気読みしようかな。