村上春樹の掌篇小説『蟹』を読む

 先日、新たに編まれた村上春樹の短篇集『めくらやなぎと眠る女』が出版された。村上の外国のファンにために彼の選りすぐりの短篇で構成されたコレクションで、それを<逆輸入>の形で再構成したもので、『象の消滅』に続く第2短編集となる。
 今回の本の中にひとつだけ<新作>の小説がある。『蟹』と題された9ページ程の掌篇だ。『蟹』は英語ではアメリカの雑誌で2003年に発表されていたが、日本語として出版されるのは今回が初めてとなる。
小説として出るのは今回が初めてだが、『蟹』の話は別の村上春樹の小説に出てくる。1985年に発表された短編集『回転木馬のデッド・ヒート』の中のひとつの短篇『野球場』に話中小説として『蟹』のエピソードは出てくる。つまり、『回転木馬の〜』>『野球場』>『蟹』という訳だ。
回転木馬のデッド・ヒート』はかわった短篇小説集で、村上春樹自身は、ここに納められた<物語>は小説とは呼べないもの、たとえばスケッチだとしている。また短篇集の冒頭をかざる「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」で、ここに収められている物語はすべて事実で、誰かしらからの聞き取りを基にしたものだと宣言している。(ちなみに僕は村上がここで語る文章が大好きだ。初めて読んだ時背筋がゾゾゾしたのを覚えている)
 そんな中の<スケッチ>である『野球場』は、25歳の銀行員が小説を書いたので意見がほしいと小包が春樹さんのところへ送られて来ることから始まる。村上は銀行員の書く文字自体を気に入り、礼儀正しいエクスキューズから、通常は読まない投稿小説を読む。その小説が『蟹』だ。『野球場』では村上と銀行員は会う。小説に書いたことは本当にあった話で、自分はいつもそういう体験をしていると銀行員は村上に述べる。そして「じゃひとつ聞かせて」と話されたのが「野球場」の話だった。
 で、『蟹』だが、春樹さんは作中でこの小説を称して「何もかもが均等で平板」で「小説としてのめりはりというものがまるでな」いと言っている。実際書かれた『蟹』を読んでも確かにそんな印象をもってしまう小説だ。『野球場』の中で『蟹』は原稿用紙70枚ほど書いているが、今回出版された『蟹』9ページ、原稿用紙にしても15枚程度だろう。
 ? ってことは『蟹』はもともと書いてあったわけでなく、習作的に後日村上春樹が書いたものなのかなあ。
回転木馬のデッド・ヒート』が出版された時は本当の聞き書きだと僕は信じていたのだが、実はすべてフィクションだったと後ほど村上春樹はネタバレしている。リアリズムの文体を獲得するためのウォーミングアップだったようだ。そう、その後書かれる『ノルウェイの森』のための文体。

 しかし、最近こういったメタ化というか、入れ子状になった物語ばかり偶然接してるな。『脳内ニューヨーク』にはじまり、演劇の『ハシムラ東郷』、プロペラ犬の『サボテニング』もメタ化してたな、そういえば。はやりというよりも、物語を語る人vs聞く人という明快な区分がこの時代にはウソっぽく見えるからか。

めくらやなぎと眠る女

めくらやなぎと眠る女

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)